上原城の歴史
上原城(うえはらじょう)は、15世紀半ばの室町時代の中期に諏訪信満によって築かれたと伝えられています。山の中腹に居館を構え、山頂に堅固な要塞を配置する構造で、5代約80年間にわたり諏訪地方の政治や文化の中心地として栄えました。
しかし天文11年(1542年)、甲斐の武田晴信(信玄)が諏訪へ侵攻します。当時の当主・諏訪頼重は上原城を自ら焼き払い、近くの桑原城へ退いて抵抗したものの降伏し、諏訪総領家は滅亡の道をたどりました。なお、信玄の側室となり武田勝頼を生んだ「諏訪御料人(由布姫)」は、この城下で幼少期を過ごしています。
武田信玄による改修と「板垣平」の統治
諏訪領を手に入れた武田信玄は、上原城を信濃平定の「前線基地」として大規模に修復・改修しました。城代(諏訪郡代)として武田四天王の一人である譜代家老・板垣信方を置きました。
板垣信方は山麓の居館に居住し、城下町の区画割りを行うなどして諏訪の新たな統治体制を築きました。この居館跡は、現在も「板垣平」という地名で城址の中腹に残されています。その後、天文18年(1549年)に政治拠点が別の高島城(茶臼山城)へ移るまで、上原城は地域の中心であり続けました。
武田氏滅亡と上原城の終焉
天正10年(1582年)2月、織田信長による甲州征伐が始まると、武田勝頼は織田軍を迎え撃つために一時上原城へと出陣(着陣)します。しかし、前線での相次ぐ敗戦や一族の裏切りにより防衛は不可能と判断され、勝頼はわずか数日で本拠地・新府城へと撤退しました。
主を失った上原城は、同年3月の武田氏滅亡とともにその役割を終え、廃城となりました。現在は長野県の史跡に指定されており、主郭跡や大堀切、巨石を用いた「物見岩」などの見事な遺構など、当時の戦国の息吹を感じることができます。
| 城名(別名) | 上原城(うえはらじょう)、(板垣城、いたがきじょう) |
| 築城者 | 諏訪信満(のちに武田信玄・板垣信方が改修) |
| 築城年 | 15世紀半ば(室町時代中期の1456年〜1466年頃)に原型が築城されたと推定 |
| 城のタイプ | 山城(中腹に居館、山頂に詰城を配した「根小屋式山城」) |
| 城の地形 | 霧ヶ峰連峰(永明寺山)の南西から伸びる尾根の先端、金比羅山の山頂に主郭を配置。南側と西側は諏訪盆地を見下ろす断崖絶壁となっており、尾根続きの東側を大規模な大堀切で遮断した、視界と防御に優れた天然の要害。 |
| 城の標高 | 約978m(主郭部分) |
| 城の比高 | 約180m(山麓の城下町や居館跡がある平地との高低差) |
上原城へのアクセス
上原城址(金比羅山)へのアクセスは、JR中央本線「茅野駅」が起点となります。山城のため、お車での訪問が最もスムーズでおすすめです。
茅野駅東口から城址登り口(板垣平・永明寺山温泉公衆浴場付近)までは徒歩で約30分の道のり。
登城後記
武田勝頼が上原城を捨てて撤退した天正10年(1582年)2月28日。
この時、武田氏滅亡への秒読み(カウントダウン)はすでに始まっていました。
この時、武田氏滅亡への秒読み(カウントダウン)はすでに始まっていました。
上原城を去ったわずか2日後の3月2日には、すぐ近くの高遠城が落城。その翌日の3月3日には、勝頼みずから未完成の新府城に火を放って逃亡することになります。そして3月11日、天目山にて武田氏はついに終わりを迎えました。
上原城の放棄から、わずか11日後の悲劇でした。
山頂からは勝頼が最後に見たであろう諏訪盆地の景色を眺めることができます。戦国最強と謳われた武田家が滅亡する激動の11日間がここから始まります。









