砥石城の歴史
大河ドラマ「真田丸」の舞台にもなった砥石城(といしじょう)は、真田幸綱(真田昌幸の父)が村上義清から奪い返し、その後の真田氏が歴史の表舞台で活躍する礎を築いた歴戦の山城です。
元々この地を治めていた海野氏の血をひく真田氏が築城した説が有力のようですが、築城者・築城年がはっきりしていません。
1550年(天文19年)、村上義清が海野氏(真田氏)から奪い取り義清の居城・葛尾城(かつらおじょう)の支城となっていた砥石城を武田信玄が攻めますが、武田軍の大敗に終わります「砥石崩れ」。
しかし翌年、武田氏の配下となった真田幸綱は、真田家のお家芸、得意の戦略と諜報活動によって、わずかな兵力で砥石城を奪取してしまいます。
奪取した砥石城は、信玄が幸綱に褒美として与え、以後、真田氏の勢力範囲を拡大するうえで重要な拠点のひとつとなり、子・昌幸が上田城を築くまでの間、真田氏の本拠地となり、真田氏三代にわたって居城として使われることになります。
真田氏で有名な2度の「上田合戦」では、上田城の防衛の要として重要な役割を果たしています。
しかし、関ケ原の戦いで徳川方が勝利したことにより真田昌幸は改易となり、後に砥石城も廃城となってしまいます。
城名 | 砥石(戸石)・米山城。米山城(こめやまじょう)、砥石城、本城、枡形城の4城を総称して砥石・米山城と呼ぶ |
築城者 | この地域を治めていた海野氏、村上氏と諸説あり |
築城年 | 不明。1500年前後 |
城のタイプ | 連郭式山城。下から米山城、砥石城、本城、枡形城と複合的な城郭を形成している |
山の名前(標高) | 東太郎山(ひがしたろうやま)(1300m) |
城の標高 | 約800m(砥石城) |
城の比高 | 約200m(砥石城) |
登城後記
あまり聞かない村上義清という武将ですが、実は凄い武将で、武田信玄を2度にわたり打ち破っています。武田信玄の戦績をGoogle検索すると「72戦49勝3敗20分」と出てきますが(笑、3敗うちの2敗がこの武将から喫しているのです。ひとつは1548年(天文17年)の上田原合戦、それから今回の1550年(天文19年)砥石城合戦「砥石崩れ」です。
残念ながら村上義清は、真田幸綱の砥石城奪取によって急速に勢力を失い、最後は居城・葛尾城も放棄して長尾景虎(上杉謙信)を頼り越後へ落ち延びます。
同じく武田信玄に「塩尻峠の戦い」で大敗した小笠原長時も、戦わず林城を放棄して長尾景虎を頼ります。
これらが要因となり、上杉謙信と武田信玄の「川中島の戦い」へと展開していきます。