フランス式の星型稜堡
五稜郭と聞いて真っ先に頭に浮かぶのは戊辰戦争の舞台にもなった函館の五稜郭ですが、実はもうひとつ、日本に五稜郭が存在していました。それが長野県佐久市にある龍岡城です。
函館五稜郭と同様に、幕末に幕府側に見方したフランスの影響を受けた様式城郭で、龍岡城が完成したのは大政奉還の年の1867年です。
機能しないまま大政奉還・明治を迎えた龍岡城は、1872年に廃城という、わずか5年という短い歴史で幕を閉じています。
その後、廃藩により取り壊された龍岡城の城内には近くの蕃松院(ばんしょういん)というお寺の学校「尚友学校(しょうゆうがっこう)」が移転し、現在も田口小学校が校地として使用されています。
龍岡城展望台(田口城)
このあたりには地方の豪族が治める無数の山城が存在しますが、そのほとんどは武田に滅ぼされ、武田の勢力に吸収されていきます。この田口城も1532年~1555年(天文年間)に武田氏の佐久へ侵攻により落城してしまいますが、この頃の小勢力は降伏して服従するか、戦って打ち破るかの2択で、真田氏のように時代の流れに乗って生き延びた武将はほんの一握りでした。
田口城のある城山の頂上には研究施設があるので車での登城も可能ですが、是非歩きで登城してみてください。汗だくになりましたが、真夏の山城もなかなかのものです。ただ、夏の山城でひとつ残念なこと、それは木々が生い茂っているために山頂からの景色が見えづらいということです。春秋は清々しく葉が枯れ落ちて見渡しもいいですが、天敵のクマの恐怖との戦いです。または冬の越後・信州の豪雪地帯を行軍するか、四季折々の登城を楽しむのも良いと思います。
築城者は日本赤十字の創始者
日本赤十字社は、西南戦争が起きた1877年、博愛社という名前で創設され、その後、現在の呼び方に改称されましたが、この日本赤十字社の創設者の一人が、今回の龍岡城の築城者である田野口藩主・松平乗謨(のりかた)です。
乗謨は大政奉還の翌年に大給 恒(おぎゅう ゆずる)に改名し、その後は新政府の要職を歴任した人物です。
城名(別名) | 龍岡城、桔梗城(ききょう) |
築城者 | 松平乗謨 ( まつだいら のりかた ) 後の大給 恒(おぎゅう ゆずる) |
築城年 | 1867年 |
城のタイプ | 星型稜堡(ほしがたりょうほ) |
城の標高 | 約720m |
城へのアクセス |
JR小海線 |
スタンプ・御城印 | 龍岡城北側「出会いの館」 (火曜日定休日) |
登城後記
城は当時としては近代的な様式城郭と言われていましたが、その実力を一度も発揮することなく終わってしまった城でした。
龍岡城を見て率直に感じたことは、この時代の大砲や小銃の技術を考えると、あまりにも規模が小さく、また、幕末の財政難で混沌とした状況で築城する意味があったのか、この地に必要であったのか、甚だ疑問に感じました。
今でいう世襲議員、松平氏でなければなし得なかったでしょう。
いつの時代も、同じことの繰り返しです。