高遠城の歴史
桜の名所として全国的に有名な高遠城址ですが、その築城者や築城年は不明とされています。
戦国時代初期のまだ小勢力が勢力争いを繰り広げる中、信濃侵攻の重要拠点と考えた武田信玄は高遠頼継の居城・高遠城へ侵攻、高遠氏を滅ぼします。
信濃への侵攻拠点を得た信玄は、織田・徳川氏に対する重要軍事拠点として、山本勘助による大改築を命じます。その後の高遠城は、秋山信友、武田勝頼、仁科盛信など武田氏の重臣や一族が城主を務めることになります。
1575年(天正3年)の長篠の戦いの大敗以降、急速にその勢力を失う武田氏に対し、1582年(天正10年)、織田信長の嫡男・信忠率いる五万の兵で高遠城に攻め入ります。
武田信玄の五男で高藤城主・仁科五郎盛信は、信忠軍よりはるかに劣る軍勢で武田軍の存亡をかけた戦いに孤軍奮闘するも、その圧倒的な勢力の前に高遠城は一日で陥落。信玄の信濃侵攻以来続いた武田氏の高遠城支配はここに終焉を迎えます。
高遠城の戦いは、組織戦としては武田氏の事実上の最後の戦いとなり、この落城を知った武田勝頼は、翌日、新府城に火を放ち、小山田信茂の居城・岩殿城を目指しますが、裏切りに遭い天目山で自刃、ここに戦国時代に一時代を築いた武田氏が滅亡します。
江戸時代以降も高遠城は廃城とはならず、二代将軍・徳川秀忠の子・保科正之らが高遠藩城主として治め、1871年(明治4年)の廃藩置県による廃城令でその役目を終えることになります。
後の1875年(明治8年)、高遠城址公園として開放され、現在は全国的に有名な桜の名所として毎年多くの花見客が「高遠城址公園さくら祭り」に訪れています。
城名(別名) | 高遠城(兜山城、かぶとやまじょう) |
築城者 | 不明。城の改修に山本勘助が関わったと伝えられている。 |
築城年 | 不明 |
城のタイプ | 平山城 |
山の名前(標高) | 月蔵山(つきろうざん) |
城の標高 | 約800m |
城の比高 | 約80m(三峰川から本丸までの高低差) |
登城後記
お城巡りは、可能な限り(片道1時間程度なら)歩くことにしています。というのも、実際に歩いて登ることで、途中目にする景観やその土地に馴染む一体感、そして心地よい疲労感と達成感を楽しむことが出来るからです。ただ、今回は伊那駅と高遠城がやや離れていたので、不本意ながらバスを使っての登城となってしまいました。
それにしても、当時の移動距離が凄いことにあらためてびっくりさせられます。
高遠城を拠点としてみると、諏訪湖や塩尻峠までは約40km、川中島までは100km超え、甲府へ戻るにしても80km以上の山道を行軍しなければなりません。
現代のような交通機関が無い時代ですので、文明の利器を知っている我々だから苦痛と考えるだけであって、当時の人々からすると当たり前のことだったのでしょう。また時間感覚にしても今と比べ物にならないくらいにゆっくりと流れていたのではないでしょうか。今の1日が1時間くらいの感覚、それ以上でしょうか。信号の何秒間ですら長いと感じる今とは大違いです。
ほとんど誰とも合わない山城を登っていると、そんなゆっくりとした時間の流れを感じることが出来ます。それが大ハマリしている理由かもしれません。