武田流築城術の集大成、わずか68日の幻の政庁【新府城・山梨県】

新府城の歴史

新府城(しんぷじょう)は、天正9年(1581年)に武田信玄の後を継いだ武田勝頼によって築かれた平山城です。織田・徳川・北条といった強大な敵対勢力からの猛攻に備え、それまでの本拠地であった甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)から、より防御に適した韮崎の地へと本拠を移すために築城されました。しかし、完成を見ぬまま織田軍の侵攻を受け、勝頼自ら城に火を放って退去したため、実質的な在城期間はわずか68日間という悲運の「幻の城」として歴史に刻まれています。

なぜ勝頼は甲府を捨て、新府城を築いたのか?

長篠の戦い以降、武田家を取り巻く情勢は日毎に悪化していました。甲府の躑躅ヶ崎館は周囲の城下町が拡大しきっており、これ以上の防衛力強化や領国統治の刷新が難しい状況にありました。
そこで勝頼は、拡大した武田領国(甲斐・信濃・駿河・上野など)の新たな中心地(新しい府中=新府)として、また織田信長の安土城に対抗する「新体制の首都」を創り上げるべく、この一大プロジェクトを決断したとされています。
普請奉行には真田昌幸らが任命され、天正9年2月から昼夜を問わぬ突貫工事が進められました。

武田流(甲州流)築城術の集大成

新府城は、南北約700m、東西約400mに及ぶ大規模な城郭です。八ヶ岳南麓から伸びる「七里岩(しちりいわ)」の断崖絶壁を天然の要害として巧みに取り込んでいます
石垣はほとんど使われず土塁主体の城ですが、以下のような武田流築城術の技術がこれでもかと凝縮されています。
  • 丸馬出(まるうまだし)と三日月堀(みかづきぼり):出入口(虎口)の前面に半円形の土塁と堀を設け、敵の直進を防ぎつつ横矢を浴びせる最強の防御機構
  • 出構(でがまえ):新府城でしか見られない特殊な遺構で、城壁から突出した四角いスペースから敵を狙い撃ちにするための施設
  • 桝形(ますがた):城内への侵入経路をクランク状に曲げ、敵の進軍速度を鈍らせる強固な城門構造

わずか68日での自焼と武田氏の滅亡

天正9年(1581年)12月、未完成ながらも勝頼は新府城へと移り住みます。しかし、過酷な築城費用や労役の負担は領民や家臣の不満を買い、武田家の足並みは乱れていきました。
翌天正10年(1582年)2月、織田信長による本格的な「甲州征伐」が開始されると、親族衆の木曾義昌や穴山梅雪らの裏切りが相次ぎ、武田軍は戦う前に総崩れとなります。
防衛不可能と悟った勝頼は、入城からわずか68日目の3月3日、自ら新府城に火を放ち、小山田信茂の守る岩殿城(山梨県大月市)を目指して落ち延びていきました。しかしその道中でさらなる裏切りに遭い、天目山にて自害。名門・甲斐武田氏はここに滅亡を迎えたのです。

徳川家康による再利用

武田氏の滅亡後、織田信長が本能寺の変で倒れると、甲斐・信濃の遺領を巡って徳川氏と北条氏が激突する「天正壬午(じんご)の乱」が勃発します。
この際、徳川家康は新府城の強固な要害性に目をつけ、城を修復して本陣を構えました。家康は、数倍の軍勢を誇る北条氏直の軍をこの新府城から翻弄し、戦いを有利に進めることに成功しています。その後、乱の終結とともに城は役目を終え、廃城となりました。
城名(別名) 新府城(しんぷじょう)、(別名:新府府中、新府新城、韮崎城)
築城者 武田勝頼(武田氏13代当主。普請奉行には真田昌幸、穴山梅雪、小山田信茂らが任命された)
築城年 天正9年(1581年)2月に築城開始、同年12月に入城(織田軍の侵攻により、翌天正10年3月に自焼・落城したため未完成)
城のタイプ 平山城(武田領国の拠点・政治の中心地として機能する広大な「政庁・複郭式城郭」であり、強固な防衛力を兼ね備えた本城)
城の地形 釜無川(かまなしがわ)と塩川に挟まれた「七里岩(しちりいわ)」の南端近く、比高差のある断崖絶壁の上に配置。西側・東側の峻険な崖を天然の要害とし、尾根続きとなる北側を大規模な乾堀(からぼり)で遮断。南側の大手(正面)には丸馬出(まるうまだし)や三日月堀、新府城特有の「出構(でがまえ)」など、武田流築城術の粋を極めた強固な防御陣形を持つ(武田氏滅亡後の天正壬午の乱では、その地形・要害性を徳川家康に利用され、北条氏を迎撃する本陣となった)
城の標高 約522m(本丸部分)
城の比高 約100m(西側の釜無川平地からの高低差)

新府城へのアクセス

JR中央本線「新府駅」から本丸(藤武神社)まで徒歩約15分〜20分。駅を出てすぐ、新府城が位置する「七里岩」の断崖が見えます。城跡の東側にある階段(約240段の急な上り坂)の登り口まで徒歩約10分です。階段を登りきると、本丸跡(藤武神社)に直行できます。

登城後記

「わずか68日で逃げ落ちた勝頼、その遺構で北条を翻弄した家康」
新府城の歴史を振り返るとき、これほどこの城の皮肉な運命を物語る言葉はありません。
私は2021年と2022年の2回、この地を訪れました。JR新府駅から歩き出し、「七里岩」の圧倒的な断崖絶壁を見上げながら、本丸へと続く長い階段を登りきると、そこには武田氏の栄華と悲劇の歴史が凝縮された、なんとも言えない静かな空間が広がっています。
最大の見どころである「丸馬出」や「三日月堀」は、2回目の登城のときにちょうど改修工事が行われていました。一瞬の物足りなさはあったものの、この城の貴重な遺構を後世に残すためには「必要なものとして仕方ないかな」と、どこか納得したのを覚えています。
本丸跡(藤武神社)から周囲を見渡せば、勝頼公も眺めたであろう富士山や八ヶ岳の雄大な絶景が広がります。
しかし、これほど強固な要害を築き、領民や家臣に過酷な負担を強いておきながら、一度も実戦で使うことなく、わずか68日で自ら火を放って岩殿城へと逃げ出した勝頼の選択は、歴史的に見ればあまりにも「残念」と言わざるを得ません。必死に城を作らされた側からすれば、戦いもせずに拠点を捨てるトップの姿に幻滅するのは当然です。これでは家臣たちから不満が噴出し、次々と裏切りが相次いだのも無理はないと納得してしまいます。
甲斐武田氏の「最後の舞台」として必ず登場する新府城。
土塁の陰や堀の底を歩いていると、戦国時代の終わりの緊迫感だけでなく、無計画な遷都によって自滅していった名門のリアルな哀愁が今なお漂っているような、皮肉な歴史の重みを感じられる素晴らしい城跡でした。