佐和山城の歴史
佐和山城(さわやまじょう)は、滋賀県彦根市にある標高232.5mの佐和山に築かれた山城です。琵琶湖を一望し、東山道(後の中山道)や北陸道が交わる交通の要衝に位置しており、古くから近江国を支配する上で極めて重要な軍事拠点でした。
その歴史は鎌倉時代初期、近江守護・佐々木定綱の六男である佐保時綱が砦を築いたことに始まると伝えられています。戦国時代に入ると北近江の浅井氏の有力な支城となり、浅井氏滅亡後は織田信長の命によって丹羽長秀が入城しました。その後、堀尾吉晴らを経て、天正18年(1590年)頃に豊臣秀吉の側近である石田三成が城主となります。
三成は佐和山城の大規模な改修を行い、5層(または4層)の堂々たる天守を構え、麓には広大な城下町を整備しました。当時の落首(風刺詩)では、次のようにその威容が称えられています。
「三成に過ぎたるもの」
「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」
(石田三成には分不相応なほど立派なものが2つある。それは名軍師の島左近と、この素晴らしい佐和山城だ)
しかし、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で三成率いる西軍が敗北すると、佐和山城は徳川方の武将である小早川秀秋らの大軍に猛攻を受けます。三成の父・正継や兄・正澄らが必死の防戦を繰り広げたものの、最後は城に火を放って自刃し、落城しました。
戦後、この地を与えられた井伊直政は当初、佐和山城に入りましたが、新たな拠点として近くに「彦根城」を築城することを決定します。その際、佐和山城の天守や石垣、門などの建材がことごとく彦根城へ流用され、佐和山城は徹底的に破壊(城割)されてしまいました。三成の記憶を消し去るかのように跡形もなく崩されたため、現在は「幻の城」と呼ばれています。
徹底的な城割によって石垣も大半は持ち去られてしまいましたが、西の丸の北西側斜面や、本丸周辺の藪の中には、破壊を免れた一部の石垣がひっそりと残されています。剥き出しになった石段の跡などは、かつてここに巨大な要塞があったことを証明する貴重な遺構です。
麓に佇む石田三成像と龍潭寺
登山口にある「龍潭寺(りょうたんじ)」の境内には、石田三成の銅像が建立されています。また、佐和山城の城門を移築したと伝わる諸門や、三成の供養塔などもあり、登城の前後に合わせて参拝したい重要な関連スポットです。
| 城名(別名) |
佐和山城(さわやまじょう) |
| 築城者 | 佐保時綱(鎌倉初期の創築)。戦国期には浅井氏、丹羽長秀らが改修。豊臣期に城主となった石田三成によって、5層(または4層)の天守を擁する近江屈指の巨城へと大規模な大改修がなされる。 |
| 築城年 |
建久年間(1190年〜1199年頃)に築砦されたと伝わる。天正18年(1590年)頃に石田三成が入城し大改修。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い直後に落城し、慶長11年(1606年)の彦根城完成に伴い、わずか16年ほどで徹底破却(廃城)となる。 |
| 城のタイプ |
山城(標高232mの山頂に本丸を置き、二の丸、西の丸、東の丸、太鼓丸などを連ね、山全体を強固な切岸や巨大な堀切で分断した、中世山城の最高到達点とも言える「総石垣造りの広域要塞型山城」) |
| 城の地形 | 近江国(滋賀県彦根市)の要衝、琵琶湖東岸に位置する独立峰「佐和山」全域に展開。東山道(のちの中山道)と北陸道が交わり、琵琶湖の水運とも直結する「天下の境目」を見下ろす圧倒的な軍事・交通の拠点。 石田三成の手によって、山頂には白壁に生える巨大な天守が聳え立ち、周囲の曲輪は高大な石垣で固められた。山麓には広大な居館群と、街道を直接引き込んだ先進的な城下町(鳥居本)を一体整備し、「三成に過ぎたるものが二つあり」と謳われるほどの威容を誇った。本丸からは広大な琵琶湖、ライバル井伊氏の居城である現在の「彦根城」、そしてかつての織田信長の「安土城跡」をも視界に収める、近江全域への強烈な監視能力・防衛力を備えている。 |
| 城の標高 | 約232.5m(本丸部分) |
| 城の比高 | 約130m(山麓の龍潭寺周辺からの高低差。現在は山麓から本丸跡まで片道約25分ほどのハイキングコースとして整備されている。 |
佐和山城へのアクセス
佐和山城跡への登城は、JR琵琶湖線「彦根駅」から山麓の「龍潭寺(りょうたんじ)」へ向かい、そこから登山道を登るルートが一般的です。
-
- 駅から登山口まで: 駅の「東口」から出て、線路沿いを北(米原方面)へ徒歩約20分で「龍潭寺(登山口)」に到着。
- 登山口から山頂(本丸跡)まで: 龍潭寺の境内脇にあるハイキングコースを登り、徒歩約25分で到着。合計所要時間は彦根駅から山頂まで片道で約45分。
登城後記
佐和山城を語る上で外せないのが、石田三成と、戦後にこの地を治めた徳川四天王・井伊直政との深い因縁です。
わずか1歳違いの同世代だった2人は、それぞれ豊臣家と徳川家の未来を背負うトップ側近であり、関ヶ原の戦いではまさに「宿命のライバル」として激突しました。
戦後、三成の居城と領地を引き継いだ直政は、領民に慕われ続けた三成の「善政」に敬意を払い、その仕組みをそのまま踏襲して統治を行いました。その一方で、豊臣の記憶を塗り替え、徳川の新しい世を示すために、佐和山城を徹底的に破壊して「彦根城」を築く大計画を遺します。
城割(しろわり)によって佐和山城は「幻の城」となりましたが、その破却された建材は彦根城へと受け継がれ、現在の美しい彦根の街並みへと形を変えました。
きらびやかな現存天守が聳える「彦根城」と、草木の中に三成の夢が眠る「佐和山城」。
近江の地で火花を散らした2人の稀代の名将に想いを馳せながら、ぜひこの2つの城をセットで巡り、歴史の大きな転換点を肌で体感してみてください。
近江の地で火花を散らした2人の稀代の名将に想いを馳せながら、ぜひこの2つの城をセットで巡り、歴史の大きな転換点を肌で体感してみてください。

















