小谷城の歴史
小谷城(おだにじょう)は、大永年間(1520年代前半)頃、北近江の守護・京極氏の家臣であった浅井亮政(あざいすけまさ)が、主家から独立してこの地の支配権を確立するために小谷山へ築いたのが始まりと言われています。初代・亮政、二代・久政、三代・長政の浅井氏三代が約50年にわたって居城とし、「日本五大山城」の一つに数えられるほどの強固な防衛網を誇る大要塞でした。
元亀元年(1570年)の「姉川の戦い」以降、浅井長政は義兄である織田信長と激しい敵対関係に入ります。信長は小谷城の目と鼻の先にある虎御前山(とらごぜやま)に陣を構えるなど、数年にわたり執拗な包囲網を敷いて小谷城を孤立させていきました。
そして天正元年(1573年)8月、信長の大軍による総攻撃が始まります。援軍に駆けつけた越前の朝倉氏が木ノ本周辺で撃破・滅亡させられると、小谷城は完全に孤立無援となりました。織田軍の猛攻の前に防衛線は次々と突破され、最後は城主・浅井長政が自刃し、浅井氏は滅亡を迎えました。戦後、城は功績のあった羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に与えられましたが、秀吉が拠点を琵琶湖沿いの長浜城に移したため、まもなく廃城となりました。
山頂の最高所「大嶽(おおづく)城跡」
標高495メートルの小谷山頂に築かれた、城内最古とも言われる重要な砦です。信長との最終決戦の際には、援軍である朝倉軍がここに布陣しましたが、織田軍の夜襲によって真っ先に落城し、小谷城崩壊の引き金となりました。
| 城名(別名) | 小谷城(おだにじょう) |
| 築城者 | 浅井亮政(あざいすけまさ) |
| 築城年 | 1520年代前半(大永年間)頃 |
| 城のタイプ | 山城 |
| 城の地形 | 小谷山の尾根沿いに曲輪(くるわ)を一直線に並べた連郭式(れんかくしき)の堅固な山城 |
| 城の標高 | 約495m(大嶽城跡) ※本丸付近は約395m |
| 城の比高 | 約240m(小谷寺から本丸まで) |
登城後記
今回は12月の少し雨がパラつくあいにくの天気でしたが、最寄り駅から30分の徒歩で小谷城に挑みました。冬の冷たい空気と静寂に包まれた山道を、一歩一歩踏みしめるように登る道中は想像以上に登りごたえがあり、日本五大山城に数えられる「天然の要塞」にふさわしい山城でした。
冷たい雨に濡れる崩れかけた石垣や、落葉した木々の向こうに広がる曲輪の跡を巡っていると、浅井三代が過ごした栄華滅亡の歴史がより一層リアルに肌に伝わってきます。
この寂寥感(せきりょうかん)漂う冬の小谷城と向き合えたことは、戦国時代のドラマを五感で味わう、特別な登城となりました。



































