(※2024年10月のぶログを再投稿しています)
郡山駅からJR東北本線に乗り、およそ20分かけて二本松駅へ、福島県にある3つの100名城のひとつ、二本松城へ行ってきました。
二本松駅から徒歩で約30分くらいのところに「二本松城址」があります。 山城だけあって途中は急勾配が続くため、自信のない方はタクシーをおすすめします。
二本松駅を出発して5分くらいのところに「二本松神社」があります。ここも二本松城郭の敷地内だったようなので、かなり広い縄張りになります。
城名(別名) | 二本松城(霞ヶ城、白旗城) |
築城者 | 初代二本松藩主・丹羽光重(にわ みつしげ) |
築城年 |
1643年(寛永20年) |
城のタイプ | 平山城 |
山の名前(標高) | 白旗ケ峰(はくぎがみね)(334m) |
城の標高 | 334m |
城の比高 | 約120m |
日本最大の菊の祭典
二本松は江戸時代より菊の愛好者が多いことから、1950年(昭和30年)から菊の祭典「二本松の菊人形」が毎年10月から11月中旬まで、ここ二本松城跡(霞ヶ城公園)で開催されています。今年はコロナ禍の影響で菊に飾られた人形の展示はないとのことでしたが、丹精込めて育てられた鮮やかな菊が三の丸御殿跡地の広場で展示されていました。
復元された箕輪門
戊辰戦争により二本松城は落城、城郭の殆どが焼失し、更に明治時代に入ってからの廃城令によりその建物が全て解体されましたが、1982年(昭和57年)に「箕輪門」が復元されました。この門をくぐっていよいよ本丸まで山城登りの始まりです。
今回は案内所でいただいたルートマップを参考にしながら本丸の裏側の搦手門跡(からめてもんあと)から本丸を目指すことにしました。
※「搦手門(からめてもん)」とは裏門のことで、正門の大手門(追手門)に対して裏門の搦手門と呼ばれる。敵を搦めて撃破するという。
搦手門を通りいよいよ本丸へ。行きは搦手門天守跡のある本丸へ登り、帰りは滝や洗心亭(御茶屋)などを見学しながら下るルートを選択しました。搦手門登山ルートは観光客も少なくとても静かで、途中に安達太良山を望む見晴台があったり、場内を巡る二合田用水路(にごうだようすいろ)があったりと、山城トレッキングを十分に楽しむことができます。
あいにくの天気で安達太良山を見ることができませんでしたが、晴れているとこんな感じに見えます。
二合田用水
二合田用水(にごうだようすい)は、約350年前に作られた安達太良山中腹から引かれた約18kmの用水路。城や城下の水源を保つために二本松藩主・丹羽光重(にわみつしげ)によって造られました。用水路の建設は幕府には内密であったようです。
日本の三井
「井」とは井戸のことで、千葉県印西市の「月影の井」、神奈川県鎌倉市の「星影の井」、そしてここ二本松城跡にある「日陰の井」を「日本の三井」といいます。「底なし井戸」とも言われていた日陰の井は深さ約16mで今現在も豊富な湧き水を溜めています。
もうひとつの白虎隊【登城後記】
戊辰戦争の舞台といえば会津、そして白虎隊を連想される方も多いのではないでしょうか。
二本松城に着いて最初に目に入るのが「二本松少年隊群像」です。
「戊辰戦争−二本松の戦い」において勇敢に戦った隊士の勇姿をたたえた群像ですが、二本松城でも、会津白虎隊士よりも更に若い子どもが志願して勇ましく新政府軍に立ち向かい、そして圧倒的な新政府軍の前に散っていく悲劇が語り継がれています。
白虎隊をはじめ、近代戦においては学徒出陣、沖縄戦のひめゆり学徒隊、鉄血勤皇隊、特攻、子どもたちが戦地で犠牲になる話は例を出すときりありませんが、どうも違和感を感じてしまいます。
これと同じくして
「なんとか将軍自決の地」
なんて慰霊碑もよく目にします。
隊士・兵士がいつ殺されるかわからない恐怖で究極の状況でいる中、お偉いさんは、ヒゲを剃り、酒を飲み、辞世の句を読み(笑)、自分の好きなタイミングで逃げるように自決(強烈過ぎる表現ですみません。ただ、これしか浮かびませんでした)。それで責任を取ったので一件落着。こんなことをしているから責任追求がなされず、同じ過ちを何世紀にもわたって繰り返してきたのでしょう。
生きて後世に語り継ぐのが真に強く上に立つ人間だと思ってなりません。
「生き恥をさらす」「死んでむくいる」、日本古来の戦人の文化と言えばそれまでですが、一般庶民にはなんの関係もありません。
沖縄戦の史跡をまわった後に書いているので、少し感情的になってしまいましたが、ただ史実を伝えるだけではなくて、本当に伝えなければならないものを見失ってはいけないと思います。
「二本松少年隊群像」を違う角度からとった写真です。