七尾城の歴史
室町時代、斯波氏・細川氏とともに三管領としての地位築いていた畠山氏の分家で能登国の守護・畠山満慶(はたけやまみつのり)によって築かれたと言われています。築城年は定かではありませんが、1467年の応仁の乱以前には築かれたようです。
室町時代の管領制度とは、将軍を補佐し、政務を総括する役職で、足利一門の斯波氏(しばし)、細川氏、畠山氏が交代で管領を努めたことから「三管領」と呼ばれます。
1576年(天正4年)、9ヶ月に及ぶ上杉謙信との戦い「七尾攻め」によって七尾城は陥落しますが、これには畠山氏の家臣と上杉氏の内通が大きく関わっていいると言われています。この頃の能登畠山氏では、家臣が上杉派と織田派に分裂していました。能登畠山氏の内紛も味方し、謙信は七尾城を攻め落とし、能登畠山氏は滅亡します。
織田領と上杉領の狭間にあった能登が上杉の領土となり、いよいよ謙信による織田信長制圧が始まろうとしていた矢先に、上杉謙信が病死、その後、信長が七尾城と能登半島の支配権を握り、1581年、能登半島は家臣の前田利家に与えられ、利家は「加賀百万石」の大大名と成長していきます。
時代の流れとともに城のスタイルも要害山城での籠城戦から交通・経済重視の平城へと移行し、七尾城の機能も失われていきます。
そして港に近い新たな小丸山城の築城により、1589年、七尾城は廃城となります。
七尾城は、七尾湾が一望できる標高300mの松尾山に築かれた山城で、7つの尾根(松尾、竹尾、梅尾、菊尾、亀尾、虎尾、龍尾)が「七尾」の由来とされています。
7つの尾根の自然地形を巧みに利用し、多数の曲輪や屋敷が防御力を高め、さらに山麓の城下町や武家屋敷の惣構えや砦で強固な城郭を築き上げていました。
能登畠山氏の内紛がなければ上杉謙信とて落とせなかったかも知れず、また歴史も変わっていたことでしょう。
城名 | 七尾城(松尾城)7つの尾根のひとつ「松尾」にお城があることによる |
築城者 | 畠山満慶(はたけやまみつのり) |
築城年 | 不明。応仁の乱(1467)以前には築城されていた |
城山の名前 | 松尾山(城山)(300m) |
城の標高 | 300m |
城の比高 | 約250m(城下町から) |
登城後記
2024年1月1日に起きた能登半島地震により亡くなられた方々へ、改めて御冥福をお祈り申し上げ、また、全ての被災された方々に心よりお見舞いを申し上げます。
私が登城したのは地震発生前の2023年4月でした。
あいにくの天気でしたが、上杉謙信も絶賛した七尾湾の絶景も本丸から一望でき、また250mの比高という自然の尾根を巧みに利用した天然要害を十分に楽しむことができました。
未だ震災の復興が続く中、関係者のご尽力により、今年4月より本丸まで登ることが出来るようになりました。
お城ブームとはいえ、全国にこれだけあるお城を管理維持していくことは本当に大変な作業です。
色んな方のご尽力が影にあることを肝に銘じ、これからもお城巡りを楽しみたいと思います。