川越城の歴史
川越城は、室町時代の1457年(長禄元年)、扇屋上杉氏の家臣・太田道真(どうしん)・道灌(どうかん)親子により築かれた城です。
室町幕府は関東を統治するために「鎌倉府」を設置していましたが、その長官を「鎌倉公方(かまくらくぼう)」といいます。
足利尊氏の子孫によって鎌倉公方の職は継承されていきましたが、東国で勢力を巨大化していく「鎌倉府」と室町幕府の対立が徐々に激化、鎌倉公方に仕えていた扇屋上杉氏が足利家に対抗するために築いたのが川越城です。
足利家に対抗するために築かれた川越城でしたが、1537年、北条氏綱(うじつな)により攻め落とされてしまいます。
対立していた扇屋上杉氏と足利氏は連合して川越城奪還を目指しますが、北条氏康(うじやす)の奇襲攻撃「河越夜戦」により失敗。
ここから豊臣秀吉の小田原征伐による北条氏滅亡までの間、川越城と小田原城は、北条氏の重要拠点としての役割を果たします。
秀吉の小田原征伐により落城した川越城は、関東移封により配置換えになった徳川家康の領地となり、1873年(明治6年)の廃城令まで北関東の重要拠点として徳川家の重臣が城主を務めます。
現在の川越城は当時の面影をほとんど残していませんが、1848年(嘉永元年)に建られた本丸御殿の一部が現存しています。本丸御殿が現存しているのは川越城の高知城の2城だけです。
見どころ満載の川越市
江戸時代の城下町「小江戸川越」として栄え、土蔵や商家など、今も古い建物が立ち並ぶ川越。明治時代から続く菓子屋や駄菓子屋が軒を連ねる「お菓子横丁」や天海大僧正が住職をつとめた徳川ゆかりの「喜多院」など、見どころ満載の城下町です。
城名(別名) | 川越城(初雁城はつかりじょう、霧隠城きりがくれじょう)。1639年の改修以降、「河越城」から「川越城」へ改められた |
築城者 | 太田道真、道灌(おおたどうしん、どうかん)父子 |
築城年 | 1457年(長禄元年) |
城のタイプ | 連郭式平山城 |
城の地形 | 武蔵野台地の北東端に位置する仙波台地と入間川を挟んで広がる入間台地、そして荒川の沖積地である荒川低地からなる地域 |
城の標高 | 約17m |
登城後記
今の若い子どもたちは知らないかも知れませんが、我々の世代以上の方なら誰もが知る童歌(わらべうた)「通りゃんせ」。
この「通りゃんせ」はここ川越城内にある三芳野神社が発祥と言われています。
築城前からこの地にあった三芳野神社の境内が築城により天神曲輪(てんじんくるわ)の中になってしまったため、「天神さま」と呼ばれるようになり、一般参詣も規制されるようになります。そこで「行きはよいよい、帰りは怖い」という歌詞が登場します。城内にあるため参詣には厳しい取締りがありましたが、特に帰りが厳しかったようです。この独特の歌詞と悲しいメロディが徐々に全国へと広まっていきました。