安土山を見下ろす城【観音寺城・滋賀県】

観音寺城の歴史

表紙の写真は、繖山(きぬがさやま)から見下ろした安土山です。

後に安土山に築かれる安土城の地には、この観音寺城の支城がありましたので、ここから見下ろす安土山は最高の景色です。
その安土山と向かい合うように位置する標高432.9mの繖山の中腹に今回の観音寺城があります。

築城の歴史は古く、佐々木氏(六角氏)が鎌倉幕府成立から近江の守護としてこの地を治めていましたが、鎌倉幕府が滅んだ後の「建武の新政」でおなじみの1335年(建武2年)頃に、佐々木(六角)氏頼(うじより)により築城されたと言われています。そのため観音寺城は「佐々木城」とも呼ばれます。
当初はこの繖山にある観音正寺というお寺の防御のために城塞化したものでしたが、応仁の乱以降、徐々に変化していき、1550年頃に現在の総石垣で強固な城郭が完成しました。

一時は浅井氏も支配下に置くなど、畿内全域を支配する勢力を築きつつあった六角氏ですが、台頭する浅井氏との戦いにも敗れ(野良田の戦い)、1563年の観音寺騒動(お家騒動、内乱)が決定的となり、六角氏は急速にその勢力を失っていきます。


1568年(永禄11年)、城主・六角義賢、義治親子は信長との戦い「観音寺城の戦い」で戦わず放棄して逃げたため、観音寺城は戦うことなく信長の手に落城してしまいます。
開城後、信長と足利義昭は麓の桑實寺(くわのみでら)で合流し上洛、その後、足利義昭は15代将軍となります。

信長との戦いで本丸や主要な建造物が焼失した観音寺城は廃城となり、その長きにわたる歴史に幕を閉じることになりました。

城名(別名) 観音寺城(佐々木城)
築城者

六角氏頼

築城年 1335年(建武2年)六角氏頼が観音正寺を城塞化。本格的な築城が行われたのは応仁の乱以降。
城のタイプ  山城
山の名前(標高) 繖山(きぬがさやま)(432.9m)
城の標高 395m
城の比高 約330m

登城後記

今回の観音寺城登城で完全に山城の魅力に取りつかれてしまったのを覚えています。

山城が活躍する戦国時代初期は、まだ無数の少数勢力がひしめき合う群雄割拠の時代、実際に激しい戦いの舞台になった城が多いのも私的に惹かれる理由のひとつかも知れません。

豪華絢爛で権力の象徴的な天守をもつ城も確かに魅力的ですが、それよりも大勢力に侵略されていく地方の小勢力がいかに生き残っていくか、そのなんとも言えない緊張感と時代感を想像させられることに凄く惹かれます。

そこに山奥の静けさや朽ち果てた石垣が更に廃墟感を演じてくれるのです。