女城主の里【岩村城・岐阜県】

山城サミット

第29回全国山城サミット恵那大会に参加してきました。

恵那市は、岐阜県南東部に位置する2004年(平成16年)10月に旧恵那市と恵那郡のうち5つの町村(岩村町、山岡町、明智町、串原村、上矢作町)の合併により誕生した都市で、今回のお目当てである「岩村城」と「明知城」があります。

日本三大山城のひとつ「岩村城」は、最も高い標高717mに築かれた山城で、城全体の高低差が180mもある要害地形を巧みに利用した堅固な山城でした。また、霧も多く発生することから「霧ヶ城」という別名も使われています。

今回は「山城サミット」と「いわむら城下おかげまつり」のコラボレーションいうこともあり、大勢のお城ファンと登城するいつもと違った賑やかなお城見学になりました。

女城主「おつやのかた」

おつやの方 は、勝幡城(しょばたじょう)(現在の愛知県愛西市)の城主・織田信定の娘で、織田信長の父・信秀も信定の子です。ということで、おつやの方は信長の叔母にあたります。

年齢は信長のほうが上だったようですが、生まれた年は定かではなく、ただ、父・信定が1538年に亡くなっていて、信長が1534年生まれなので、その間であると考えられています。

おつやの方は、生涯4度の結婚をしていて、岩村城に嫁いだのは3回目の結婚のときです。相手は岩村城主・遠山景任(とおやま かげとう)。

武田信玄の侵攻に対する政略結婚でしたが、遠山景任とも2度の結婚と同様に死別してしまいます。二人には子どもがいなかったため、信長の5男・御坊丸(ごぼうまる)が遠山家へ養子入りしていましたが、まだ御坊丸が幼かったこともあり、ここで「女城主」が誕生します。

4度目の結婚

武田軍の進軍に孤軍奮闘する「女城主・おつやの方」ですが、3ヶ月に及ぶ籠城戦の後、遂に武田軍の手に落城することになります。その時の武田軍の将が今回のお相手・秋山虎繁(あきやまとらしげ)です。

秋山虎繁が出した和議の条件は、なんと「結婚」でした。結婚したら五坊丸や領民、城兵の命は保証するというものです。
結局、おつやの方はこの条件を受け入れます。
ただ、当然ながらこのとき以降、味方であった信長が敵対勢力になってしまいます。

壮絶な最期

武田氏の栄華も長くは続かず、武田信玄の死、長篠の戦いの大敗を堺に、時代の流れは一気に信長に傾きます。

今度は信長軍から攻撃を受ける岩村城。

強固な山城での6ヶ月にも及ぶ籠城戦も、岩村城は信長の軍勢の前に力尽きます。

これも戦国の世、敗軍の将・秋山虎繁とおつやの方は処刑されます。しかも「逆さ磔(はりつけ)」という残虐な方法で処刑されたと言われています。どれほど酷い処刑か、自分で1分くらい逆立ちしてみるとよくわかります。30秒でもいいですので試してみてください。

一説には、信長に切られたとか、信長は助け舟を出したがおつやの方が断り、夫を追って同じ刑に処されたなど色々ありますが、「叔母をもかかる非道の目に合わせるとは、信長よ、必ずや因果の報いを受けん!」と死に際に残しているとすれば、容赦なく処刑されたのでしょう。

岩村城の石垣

城名(別名)  岩村城(霧ヶ城)
築城者 加藤景廉(かげかど)恵那市観光協会より
築城年

1185年頃(長禄3年)

城のタイプ  山城
山の名前(標高) 城山(717m)
城の標高 717m(本丸)
城の比高 約150m

登城後記

今回は山城サミット&いわむら城下おかげまつりに行くことができました。こういう機会がないとなかなかこの地域のお城巡りが出来ないので、非常に良い機会に巡り会えたと思っています。三大山城の最期「備中松山城(岡山県)」がまだ未登城ですので、機会を見つけて(作って)登りたいと思います。この日は岩村城の他に「明知城」も周ることが出来たので、また次回の講釈で。笑(西遊記より)