岩殿城の歴史
岩殿城(いわどのじょう)は、山梨県大月市にそびえる標高634mの険しい岩山「岩殿山」につくられた天然要害の山城で、武田信虎(信玄の父)の時代である天文元年(1532年)に、郡内領主であった小山田信有が築城・あるいは本格的な整備を行ったと語り継がれているのがもっとも有力な一説ですが、公式には城主や築城年代等は不明とされています。
武田勝頼の敗走と裏切り
岩殿城の歴史を語る上で外せないのが、天正10年(1582年)の武田氏滅亡にまつわる悲劇のドラマとして、岩殿城主・小山田信茂の「裏切り」が有名なエピソードです。
織田信長・徳川家康の連合軍による「甲州征伐」が始まると、武田方の戦線は各地で崩壊。勝頼は完成したばかりの新府城(韮崎市)を自ら焼き払い、逃亡を余儀なくされます。
このとき、勝頼の側近たちの意見は2つに割れました。
このとき、勝頼の側近たちの意見は2つに割れました。
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- 真田昌幸の提案:強固な「岩櫃城(群馬県)」へ逃れるべき
- 小山田信茂の提案:我が拠点の「岩殿城(山梨県)」へ逃れるべき
勝頼が選んだのは、従兄弟でもあり、代々武田家に尽くしてきた名門・小山田信茂が守る「岩殿城」でした。
勝頼の一行が険しい大菩薩峠を越え、岩殿城まであと一歩の「笹子峠」付近に差し掛かったとき、衝撃の知らせが届きます。
「小山田信茂、謀反。岩殿城への通行を拒絶」
「小山田信茂、謀反。岩殿城への通行を拒絶」
信茂は勝頼を迎え入れる直前で心変わりし、関所を閉鎖して鉄砲を打ち込んできたのです。
逃げ場を失い、完全に孤立無援となった勝頼は、連れていた引き出物や愛する家族とともに、近くの天目山へと追い詰められます。そして正室・北条夫人や息子の信勝らと共に自害。ここに、平安時代から続いた名門・甲斐武田氏はひっそりと滅亡しました。
逃げ場を失い、完全に孤立無援となった勝頼は、連れていた引き出物や愛する家族とともに、近くの天目山へと追い詰められます。そして正室・北条夫人や息子の信勝らと共に自害。ここに、平安時代から続いた名門・甲斐武田氏はひっそりと滅亡しました。
「なぜ信茂は裏切ったのか?「希代の不忠者」の真実」
勝頼を見捨てた小山田信茂は、歴史上「武田を滅ぼした裏切り者」として長く悪名を背負うことになります。しかし近年の研究では、彼が単に我が身可愛さだけで裏切ったわけではない、という見方もされています。
信茂が治めていた「郡内地方(大月・都留エリア)」は、相模の北条氏や武蔵の織田領と接する国境地帯でした。もしここで勝頼を迎え入れて岩殿城に籠城すれば、自分の領民たちが織田の大軍に踏みにじられ、虐殺されることは火を見るより明らかだったのです。
「武田家と心中するか、領地と領民の命を守るか」
そのような状況下で、信茂は苦渋の決断の末、領民を守るために勝頼を切り捨てる道を選んだとされています。
「武田家と心中するか、領地と領民の命を守るか」
そのような状況下で、信茂は苦渋の決断の末、領民を守るために勝頼を切り捨てる道を選んだとされています。
織田方に臣従を誓うため、信茂は勝頼の首級の代わりに、人質として差し出していた自身の母親を連れて甲斐善光寺(甲府市)へと向かいました。
しかし、織田信長の嫡男・信忠から下されたのは、あまりにも冷酷な沙汰でした。
「主君を欺き、裏切るような不忠者を召し抱えるわけにはいかない」
しかし、織田信長の嫡男・信忠から下されたのは、あまりにも冷酷な沙汰でした。
「主君を欺き、裏切るような不忠者を召し抱えるわけにはいかない」
信茂の降伏は認められず、その場で処刑。さらに哀れなことに、彼の老母や妻、幼い子どもたちまで全員が処刑され、小山田一族は根絶やしにされてしまいました。岩殿城の主が下した命がけの選択は、最悪の結果となって終わったのです。
| 城名(別名) | 岩殿城(岩殿山城) |
| 築城者 | 不明(小山田信有の説あり)、本格的な城への改修は小山田信茂 |
| 築城年 | 不明(戦国時代に大規模な改修・要害化) |
| 城のタイプ | 山城 |
| 城の地形 | 桂川沿いに切り立った巨大な岩壁(鏡岩)を利用した天然の要害 |
| 城の標高 | 約634m |
| 城の比高 | 約280m |
岩殿城へのアクセス
岩殿山は2019年の落石事故以来、長らくメインルートが通行止めとなっていましたが、2025年12月25日に待望の「新迂回ルート」が開通し、現在は主に2つのルートから登城することができます。富士山の絶景を見ながら登城する 駅近&絶景の「強瀬(こわせ)新ルート」と、岩殿山の北側(裏手)から強瀬新ルートより少し傾斜を抑えて登りたい方におすすめの「畑倉(はたくら)ルート」があります。
登城後記
岩殿城は、その圧倒的な堅牢さと、武田氏滅亡にまつわる切ない歴史が交錯する非常に魅力的な山城です。
大河ドラマ「真田丸」で演じた温水洋一さんのイメージが強すぎて、どこか残念な印象がついてしまった小山田信茂ですが、主君を想いながらも領民のために苦渋の決断でした。
武田が滅ばなかったら、「本能寺の変」以降の戦国の構図は全く違ったことになっていたでしょう。
そしてもし岩櫃城に移っていたら、真田が天下を取っていたかもしれませんね。

















