岩櫃城の歴史
大河ドラマ「真田丸」の舞台となった岩櫃城(いわびつじょう)は、吾妻八景を代表する岩櫃山(標高802m)の中腹東面に築かれた山城で、上州最大を誇る要害山城です。
鎌倉時代にこの地を治めた吾妻太郎助亮(あがつまたろうすけあき)により築城されたと伝わりますが、築城者・築城時期共に不明とされています。
戦国時代に入り、吾妻氏の子孫と称する斎藤氏が当時の城主・大野憲直を滅ぼし岩櫃城および吾妻郡一帯を支配します。
上杉氏に属していた斎藤氏はその後勢力を拡大しますが、武田氏に臣従した真田幸綱(幸隆、昌幸の父)が斎藤氏を滅ぼし、岩櫃城を手中にします。その後、真田幸綱は沼田と上田を結ぶ街道にある岩櫃城を重要拠点として沼田城、名胡桃城、上田城へと勢力を拡大していくために、岩櫃城の大改修を行います。
長篠の戦いで大敗した武田氏が急速に勢力を失っていく中、真田家当主となっていた幸綱の三男・昌幸(信幸・幸村の父)は、武田勝頼を岩櫃城へ迎え入れて武田家の巻き返しを図ろうとしますが、勝頼は岩殿城(山梨県大月市)への入城を選択、結果、小山田信茂の裏切りにより天目山にて自刃、ここに武田氏が滅亡してしまいます。
多くの方が「もしも」を想像して興奮しているのではないでしょうか。
その後、真田氏は君主を鞍替えしながら戦国の世を巧みに生き残り、岩櫃城主も昌幸の嫡男・信幸(信之)が受け継ぎ、関ヶ原の戦い後も東軍(家康側)についた信幸(信之)が城主を努めますが、1614年(慶長19年)、江戸幕府による一国一城令によりにより廃城となってしまいます。
築城より約400年間、岩殿城(甲斐、大月市)、九能城(駿河、現在の久能山東照宮)とともに武田三堅城(三名城)と称された岩櫃城は、その長きに渡る歴史に幕を閉じることになります。
城名(別名) | 岩櫃城(いわびつじょう) |
築城者 | 不明。吾妻太郎助亮(あがつまたろうすけあき)が築城したと伝えられている |
築城年 | 不明。鎌倉時代初期と伝えられている |
城のタイプ | 山城 |
城の地形 | 岩櫃山(標高802m)の中腹東面 |
城の標高 | 約595m |
城の比高 | 約230m(群馬原町駅より) |
登城後記
沼田城をはじめ、松代城、上田城、砥石城、名胡桃城、中山城と真田氏ゆかりの城を巡った中で、たぶん一番面白かったのが岩櫃城かも知れません。歩いた距離も、群馬原町駅から「尾根通り」で岩櫃城へ⇨「赤岩通り」⇨「密岩通り」から岩櫃山頂上へ⇨「沢通り」で下山のグルっと一周するコースを選択しましたので、相当歩いたと思います。
山梨県大月市にある「岩殿城」のときもそうでしたが、山としても人気のある岩櫃山ですので、純粋に登山を楽しんでいる方も多く、山頂は結構な人集りが出来ていましたが、頂上からの絶景は最高でした。400年前に真田親子もここからこの絶景を眺めていたのでしょうか。