大・小ふたつの山城
林城は松本平市内から少し離れた里山辺地区というところにあります。
林城は、金華山の大城と福山の小城のふたつの山城からなるかなりの規模を誇る山城です。
また大城と小城は、大嵩崎(おおつき)集落を挟んでUの字(馬の蹄のように)に築かれているため、侵入してきた敵に対して相当の防御力を備えていたた強力な要塞であったと思われます。
現在は、大城は「東城山公園」として整備され、また林小城は非常に多くの土塁や石垣が残っていて見応え十分な山城です。
今回の登城は、大城から入り小城へ移動、そして小城の石垣群をみて下りてくるルートでしたが、もしかすると、小城入口から石垣群を目指したほうが面白かったかも知れません。というのも、下りながら小城の石垣群に着くより、やや勾配のきつい小城入口から登り、見上げる石垣群のほうがより威圧感があるように思えたからです。
小城⇨大城のほうが体力的に少々きついかも知れませんが、おすすめです。
林城(小城)の石垣群
時代背景
戦国時代の信濃は、小さな豪族がひしめき合い、強大な戦国大名がいなかったこともあり、甲斐から信州・越後へと勢力の拡大を狙う武田信玄の標的にされます。武田信玄は、伊那・諏訪と侵攻し、いよいよ小笠原氏の本領である安曇郡に侵攻を開始します。
そうした中、現在の上田市周辺を治めていた葛尾城主・村上義清(むらかみよしきよ)が、信濃に侵入した武田信玄を上田原(長野県上田市上田原)の戦いで打ち破ってしまいます。
この勝利によって勢いづいてしまった小笠原長時は、信玄が勝ち取った諏訪の奪取に向かいます。
武田勢力を塩尻・諏訪から駆逐しようとした結果、信玄の急襲によりあっという間に壊滅、林城へと引き返すことになります。(塩尻峠の戦い)
林城へ敗走した小笠原軍には、侵攻を続け林城を包囲した武田軍の前に戦う士気は残っておらず、城兵の逃亡が相次ぎ、戦わずして林城は陥落します。
その後、小笠原長時は村上義清、上杉謙信を頼り落ち延びますが、この時から小笠原氏の長い流浪の旅が始まります。
1550年(天文19年)に長時が信濃を退去した後、戦の拠点は深志城(現在の松本城)へと変わり、林城はおよそ100年の歴史を閉じることになります。
城名(別名) | 林城(大城:金華山城、小城:福山城) |
築城者 | 小笠原清宗(きよむね) |
築城年 |
1459年(長禄3年) |
城のタイプ | 山城 |
山の名前(標高) | 大城:金華山城(846m) 小城:福山城(796m) |
城の標高 | 大城:846m 小城:796m |
城の比高 | 大城:約220m 小城:約160m |
登城後記
時代の権力者が代わっていく中で小笠原氏もまた生き延び続け、時代が徳川に移ると、ついに故郷・安曇野郡に戻る事が叶いますが、「塩尻峠の戦い」の敗走から実に33年の年月が経っていました。
戦国時代を生き延びた武将たち。歴史のお表舞台で活躍し戦い続けた真田一族、落ち延びながらも生き続けその血筋を残した小笠原氏。時代の運命は面白いものです。