信濃支配終わりの始まり【埴原城・長野県】

埴原城の歴史

小笠原氏城趾群として長野県史跡に認定されている埴原城(はいばらじょう)は、埴原牧(はいばらまき)として馬の飼育をしていた埴原氏(後の村井氏)が村井城の詰城として築いたものと言われています。

埴原牧とは、信濃に16あった勅旨牧(ちょくしまき)のひとつですが、勅旨牧とは、中央政府(朝廷)に 献上するための馬を飼育する朝廷直轄の牧(牧場)のことをいいます。

その後、小笠原氏が信濃守護職となって府中に入ると、村井氏は小笠原氏に属し、埴原城や林城は小笠原氏の居城となります。

いよいよ武田信玄による信濃攻略が始まり、1548年(天文17年)の小笠原長時との「塩尻峠の戦い」に勝った信玄は村井城を攻略、村井氏はここに滅亡します。埴原城の落城もこの後と考えられていますが、武田信玄による信濃侵攻で最初に落ちた城となってしまいます。

埴原城落城後、深志城(後の松本城)や林城など支城は戦わず自落(城を放棄)、小笠原氏の信濃支配はあっという間に終結します。

その後、小笠原長時は越後の上杉謙信や諸国を頼る流浪の末、信濃への帰郷を目前に殺害されますが、徳川家康の支援で長時の三男・貞慶(さだよし)が深志城(松本城)や埴原城を奪還し、再び信濃の地に戻ることになります。現在の埴原城の石垣や土塁、畝状竪堀群などは、その時期以降に改修されたものと言われています。

埴原城は、東西二つの主郭部を持つ標高約1000mに築かれた山城で、尾根上に曲輪群が配置されています。特に、扇状の畝状竪堀群や大堀切、石垣や大規模な土塁など、見どころ満載です。

城名埴原城(はいばらじょう)
築城者埴原氏(村井氏)
築城年不明。現在の形になったのは1582年以降
城のタイプ山城
城の標高約1000m
城の比高約200m

登城後記

松本駅から往復およそ16kmの距離を、今回は趣味のジョギングも兼ねて登城することにしました。松本市街から少し離れた場所にあり、行きは上りが続きますので、歩きに自信の無い方は中山線(バス)の「柿の窪」で下車すると近いかも知れません。入口付近でバス停を見かけましたが、他にもっと良い方法があるかもしれません。

蓮華寺(れんげじ)の脇を通り、鳥獣防護用の柵を通りお城へ向かいます。柵を通るまではあまりの草の生い茂り具合にちょっと怯みましたが、柵を通るとまるで別世界、山城が持つ独特の静けさと神秘感が広がる素晴らしい山城でした。